「嫌われる勇気」そのまま

2017.02.15

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アドラーの著書「嫌われる勇気」そのままのドラマが展開しています。

あくまでもドラマですが、表情を変えないヒロインの凛とした真っ直ぐな眼差しが彼女の揺るぎない生きる姿勢を感じさせます。

警察と言う組織の中には、当然その行動を疎ましく思う刑事達もいます。自らの意思に従って毅然と行動するヒロインに、相棒の男性刑事はたじたじになりながらも、何故そうしたことが出来るのかを椎名桔平演じる教授に尋ねるシーンがあります。教授は常に「価値観」と言う言葉を出します。「彼女は自分の価値観を生きている」と。

組織と個人のあり方を描いたドラマを見ながら、今日的テーマとして浮上してきたことをちょっと嬉しく思っいます。何故なら私が長い間(いまも)考え続けてきたテーマだからです。社会と個人、政治と個人、会社と個人、地域と個人、家族と個人・・・。

あなたにも思い当たることがあるかも知れません。組織や集団にいながら、どうしたら自分の価値観に沿って人は歩いていけるのか・・・。生きている限り人との関わりは避けては通れない。そして悲しいかな、人は他人に嫌われることを怖れる生きもののようです。本当は「ノー」と言いたいのに「イエス」と言ってしまうのも、結局は嫌われたくないから。

これは人間が抱える永遠のテーマなのかもしれません。人間は一人では弱い生き物だから集団を作り上げてきました。生存するための知恵だったのでしょう。その生存するための組織や集団を必然と考えて、あらためて思うのです。ちょっと理屈っぽくなりますが、自立して生きると言うことはどういうことなのか。私は依存と共存は全く異質のものと考えています。そして組織とはお互いが共存するためにある訳で、決して依存することではないと。

しかし人はともすると組織にいることで安心を感じ、その安心を失いたくないためにしがみつき心にない嘘をつく。組織や集団や仲間からはじかれないために、心とは裏腹に『イエス」と答えてしまう。

ある著書にもあります。「断る勇気」「ノーと言う勇気」まさに「嫌われる勇気」に通ずると思うのです。

私も嫌われたくなくて、ずーっとそうやっていい人を演じ続け、結局自爆する羽目になった経験があります。それまで親しかったはずの人達に、いつしか嫌悪感すら感じるようになり、相手の言葉や態度の一挙手一投足に傷ついていく自分がいる・・・。でも、それは自分が嫌われるのを怖れて演じ続けてきた結果の集大成だと気づいたのです。

それは友人の一言でした。

「その嫌悪感って、あなたのやってきた結果なんじゃないの?あなたがどう思うかが問題なんじゃないのかな。 考えてみて。 もしもその人達と明日から会えなくなったとして、あなたの人生にどんな影響があるの? あなたらしく生きていたら、あなたが必要とする人達との新しい出会いは必ずあると思うけど。」

・・・もしも嫌われたとして私の人生にどんな影響があるのか。多分、なにもない。ただ一瞬だけ、嫌われるとへの怖れを除いては・・・。

それはプライベートに限ったことではありません。友人にこういう対応していると、実は仕事上でも同じ様になるんですね。顧客に嫌われることへの不安感。その恐怖故ゆえそこでもいい人を演じ続けている。そしてその積み重ねが自分のスタイルになってしまうのです。棲み分けなんて草々できるものではありませんから。

 

プライベートでもビジネスでもいい人やってると、それはすべて自分自身に返って来る。そして本当に自分とって何が大切なのかが見えなくなっていく。そんな経験、あなたにはありませんか?

そういう息苦しさの中で迷走している時に立ち寄った書店の棚に、アドラーの「嫌われる勇気」というタイトルを見つけました。きっとその時の心境をズバリ言い当てた言葉だったのだと思います。

迷わず購入して、その夜一気に読みました。
読み終えて、はたと気がついたのです。 もしも嫌われたら、私は何を失うのだろう。 いい顔していい人を演じるって、結局誰に好かれたいと思っているのか・・・。 もしも嫌われたら、私は生きていけなくなるのだろうか。嫌われたくなくていい人を演じながら、そんな自分に嫌気が差している(また私は自分に嘘をついている・・・)。

そもそも嫌われるということはどういうことなのか? いままで付き合ってきた人達や、いまいる仲間や集団からはじかれて、いわば村八分になることで、結果、孤立することへの恐怖や不安なのではないかしら。

そして「生きる世界は本当にそこだけしかないのだろうか」という疑問が湧いてきたのです。もしかしたら私は嫌われることによって、別の世界を探さなければならなくなることへの不安を心のどこかに持っているのではないか・・・。言い換えれば、嫌われたくないのは変化することへの怖れでもあるのではないのかと。

そして私はひとつの答えに行き着きました。 私はどう生きたいと思っているのか・・・。

嫌われたくないと思っている間は、結局他者の土俵の上に居続けるということに他なりません。他者の土俵とは、他者の価値観です。自分自身の価値観がしっかりとあれば、嫌われたらどうしようと考えることなど必要なくなってくる。こんな当たり前のことに気づかずに迷走していたなんて!

自分の価値観は、誰かが作ってくれるものではありません。自らが考えて考えて、そのプロセスの中から生まれてくるものだと私は思います。自分を変えるのは自分にしかできないのですから。自らの価値観を生きることで、よしんば他者(仲間と思っている人達)から嫌われたとしても、自分に嘘をつきながら生きていくよりはずっと風通しの良い景色がそこにはあるはずです。

他者に媚びず、他者の価値観におもねくことなく自分自身の価値観で生きていこことこそが「嫌われる勇気」を持てることなんではないか。そう、その勇気を持ちながら毅然と面を上げて生きて行きたいなんて思う冬の夜です。

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