真実のことば

2015.03.29

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「明日への遺言」を観ました。

大岡昇平の長編小説「ながい旅」を原作に2007年に映画化された作品。

主人公の岡田資中将の高潔な人柄を藤田まことが見事に描き出し演じています。

 

岡田は、名古屋大空襲の際に撃墜され脱出し捕らわれたB29の乗務員を
ハーグ条約違反の戦争犯罪人として略式命令により斬首処刑します。

 

戦後この行為に対し「捕虜虐待」の罪(B級戦犯)として横浜法廷でアメリカ側に裁かれるストーリー。

岡田は戦勝国による無差別爆撃の正当化を批判する一方で、捕虜処刑に関わった部下達をかばい
「自分ひとりが一切の責任を負う」と述べて裁判に臨みます。

 

戦犯を扱った映画はいくつもありますが、今回この作品を観てあらためて気が付いたことがあります。

それは「戦争」をどう捉えるのか、という事です。

 

ともすれば、どちらか一方からだけの見方をしてしまいがちです。

裁判に臨む岡田中将の、静かな、しかし揺ぎのない信念を観て行く中で、ふと今日の状況と被りました。

 

政府が出してきている「憲法改正」。

 

「改憲」か「護憲」かを議論するのは勿論重要なことです。

憲法は、私達国民の生活の土台を支える規範であることは言うまでもありません。

 

しかし、戦後70年を迎える今、果たしてあの戦争をどれだけ国民一人ひとりが自分の人生と照らし合わせて考えているかと思ったとき、私自身は決して充分ではない事を認めざるを得ません。

 

少し辛らつな言い方をするのならば、日本国民はすべからく被害者であると胸を張って
言い切れるのかどうか・・・。

戦後A級戦犯の方が、その後の日本のリーダーになったという事実もあります。

 

そんな事を考えると、戦犯で裁かれた、戦争為政者と言われた軍人達だけが加害者責任をすべて被ってしまい、それで型がついたと言えるのかどうか。

たとえ裁判を受けなかったとしても、戦争に直接手を貸していないとしても、日の丸の旗を振らされていた
その姿を写真や映像で見た時、もしもそこに自分がいたとしたら。

 

私は一切関わらなかった、私は被害者なのだ、と言い切れるのかどうか・・・。

 

20150329-1

 

岡田は、この裁判を「法戦」と位置づけ法廷で戦います。

妻に書き綴った「遺書」の中で岡田は語ります。

 

「頼むものはただひとつ、我のみ。真に我自身の覚悟だけである。
正直に己を投げ出してこそ、仏の意にも叶うと見えたり。
私は必ず戦いに勝ってみせる」

 

そして岡田はこうも綴ります。
「戦争はこれからもなくなる事はないであろう。だからこそ・・・」

 

私はこの彼の言葉は真実であり、それが現実なのだと思うのです。

人類の歴史を振り返っても、それは抗えません。

 

だからこそ、人は英知を振り絞り平和を希求するのではないのでしょうか?

最後の日、岡田は丁寧に部下の一人ひとりに別れを告げます。

 

「君達は生きるのだ、生きて平和をつくるのだ」

 

遺言に嘘は書けない、最後の別れに嘘はつけない。

最期に向き合った時、人はその人そのものになる。

 

 

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